人は役割(ロール)を演じる(プレイング)ことの不安から真実を求めるのかな?
何かしらの役割を持たないと人は他者に認知されないので、受け入れてもらう為に、自分という人間をカリカチュアして表現します。また、自分にとっても役割のない人間を受け入れることは、自己が脅かされる不安によって出来ないので、例えば、初めて会った人も自分が以前に会った人と重ね合わせて認知します。
仕事、家庭、趣味、仲間、恋人、ネット、etc...
人はいろんな場所にいろんな自分の部分部分をばらまきます。それでも満たされることの無い飢え。
他人に認知してもらう自分はそんな「部分」じゃないんだ。自分は「全体」なんだという思い。世界全体に「自分全体」を理解してもらいたいという願い。それは儚い願いです。それを突き詰めると世界の否定や他者はたまた自己の否定に繋がっていったりもします。
人が宗教にはしり、神の存在を信じたくなるのは、個人個人にとって世界はあまりにも狭いからです。
「世界を理解したい」「自分の願う世界を追求したい」という、より大きなものへの探究心が先に立つのではないようです。
「自分全体」の方が「世界全体」よりも大きすぎて入れない為に、はみ出した自分を分割せずに理解してくれる場所が欲しいから神を求めるのです。
現実のこの世界では、自分は「部分」でしか理解されないのです。一人一人の「全体」を表現できる余地は世界にはありません。
神とかなんとか、真実らしきものに自分全体は理解されているという、後ろ盾があってこそ、安心感を持って人は部分の演技に集中出来るようです。
※あまり怪しまないでください。自分の下書きメモ見て、何が言いたかったの俺?と思ったので、ちょっと気分で書いてみました〜(笑)。
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